自立生活援助の現況と課題

平成30年4月から「自立生活援助」という障害福祉サービスが新たに導入された。

具体的には、精神科病院等の医療機関グループホームから単身生活等に移行した方などを主たる対象とし、一人暮らしに必要な理解力や生活力を補うために、定期的な居宅訪問や随時の対応により必要な支援を行うサービスと位置付けられている。

法人としては取り入れる価値のあるサービスだと感じたので、平成30年5月に事業所を開設して細々と活動を続けているが、現状での良さと課題を(課題が多すぎるが)書いておきたい。

利点としては以下があげられるだろう。
・地域で自分に合った地域生活を送るうえで、これまで精神科病院グループホームで過ごした時間の長い人たちにとって、スムーズに単身生活に移行することが難しい場合が多く、様々な契約や制度利用手続き、近隣との付き合い、地域で暮らすためのルール(例えばゴミ出し)などについて、相談支援専門員よりも具体性を持ち、かつヘルパーのようにその人の生活の一部分だけに関わるのではなく、その人全体の生活をサポートすることにより、地域生活を維持することができると考える。それにより、障害を持ちながらも地域で暮らしていくことが可能になるケースがより増えると考えている。現行の障害者総合支援法では、各サービスが縦割りになりがちなため、それを包括的に把握し、かつ医療や介護保険分野とも連携を持つことができる本事業には利点が多いと感じている。
これは、権利として地域で暮らすということ以上に、地域に当たり前に障害のある人がいる(地域社会の一員とての障害者)という状況を作ることでもあり、今日でいう共生社会などの理念にも合致すると思う。

下線を引いたが、今の障害福祉サービスは各サービスが縦割りとなっていて、その人の生活全体を支え、生活を”まわす”役割を担う人がほとんどいないように思う。
その役割を担うとされる相談支援専門員は、確実にサービス調整員になり果てており、サービスをどう活かすかや変えていくかなどの視点を持っている相談支援専門員の方に出会うことはまれになっている。
だからこそ、”伴走者”のような役割を担える立場の支援者がいることで、これまで単身生活が難しいとされた人も、地域での生活が送れるようになるように思う。

一方で、以下の点を含め、課題は山のようにある。
・報酬単価の低さ
・1年間という期限設定
・相談支援専門員との役割の差異
・従業者の労働環境

報酬単価は低く、月に何度訪問しても定額の報酬となっている(訪問2回以上という限定はあるが)ため、比較的支援が必要な人を支えている場合、多くは事業所の持ち出しとなる。
実際にかかった時間を元に計算すると、従事者の時給は500円程度だった。
また、1年という期限があり、生活が安定しないままに次の支援者へバトンを渡す必要もあり、特に長期入院の方やグループホームでの生活が長かった方の場合、1年ではとても調整しきれない現状もある。
相談支援専門員との役割の差異も明確でなく、相談支援事業所もこの自立生活援助事業を行えるので、財政的に苦しい相談支援事業所が行う訪問を2回行えば、多少の報酬を約束するというような、事業所を救うための事業になり果てるのではないかという懸念も持っている。
(僕の法人ではグループホームに敷設している)

 

 「相談支援」の弊害が本当に大きくて、なんでこんなに苦労するんだと思うが、そのあたりは、萩原(2019)に詳しい。

詳論 相談支援――その基本構造と形成過程・精神障害を中心に

 

課題は多いが、パーソナルアシスタンスにつながるような制度の前身にもなりうると感じている部分もあるので、何とか工夫もしながら事業を続けていきたいところ。
横浜の自アシもこの制度ができたことでかなり苦しい状況になった(職員配置や報酬などの面)と聞いているので、少しでも意義のある制度になればと思うが。

コロナを巡って②

前回は「集う」こと、「つながる」ことを巡ることについての覚え書きだった。

今回は、その中で見えてくる「リスクと管理」の問題についての覚え書き。


こういう情勢になると、それぞれの法人や事業所がどのような理念や方針を持っているのかがかなり鮮明に見えてくる。(都市部とそれ以外では違いもあるので、一概には言えないが、あくまで地方(田舎)の話として)
感染のリスクを避け、全面的に電話等の非接触的な手段をとる事業所がある一方で、リスクをなるべく抑えた形で、事業所を続けようとするところもある。グループホームでも、感染を防ぐため外出を制限したりするところもある。
精神科デイケアでも、他者と共有する活動(料理、トランプ、ボードゲームなど)を中止しているという声も多く聞いている。

その塩梅はとても不確定な場所にあると思うのだが、なるべくリスクを回避しつつも、これまで通りの運営を行えることは、その事業所の管理的な側面をどれほど低減させることができるのかという問題にもつながるように感じる。
そして、これまでどちらかというと管理的な側面の強い事業所等が、今回のコロナの影響を考慮して一律に閉鎖したり、利用者に制限を強くかけている印象を持つ。

精神保健福祉分野では、その管理的な側面について強く異議申し立てがあり、「病院から地域へ」という(実際にはさほど機能しているとは言えない)スローガンも掲げられた。
精神科病院の持つ管理的な面についてはもちろんのこと、地域へ出た先でも「地域の施設化」という指摘も多くなされている。
敷衍できるほどの精確さはないが、今回の件でいち早く管理的な方針を打ち出したのは病院であり、その次に施設的な地域事業所もその流れに乗ったように思う。

「リスクと管理」
この情勢下ではなかなか主題として挙がってこないものだが、今後のことも含め、注視しておくことが必要だと感じている。

コロナを巡って①

コロナウイルスが流行している今、世間一般で言われていることに加えて、精神障害があること(”心の病い”があること)からくる難しさがうまく汲み取られていないように思う。
その現況に結構イラついていたりするのだが、いくつか書き残しておければと思っている。

■「集う」ということ、「つながる」ということをめぐって
緊急事態宣言が出され、3密を避け、なるべく家にいることが勧められてしばらくになる。
ただ、僕の働いている障害福祉サービス事業所は、様々な対策は行いながら、通常通りの運営を続けている。
正直、様々な対策を行ったり、もしも自分の事業所でコロナウイルス感染者が出たら…という不安、また職員の中にも基礎疾患があったり、学校に通っている子どもさんがいらっしゃったりで、かなり精神的に疲弊している。

それでも事業所を開け続けるのには、日中通う場所があることの必要性(自分の家でない外の場所)を感じているし、その中で他者とかかわることの重要性も感じているからであり、これは現在電話での対応を勧める国の方針とはやや違う位置にあると思う。
また、精神科デイケアが活動を縮小しており、地域柄そうした場所が日中の主な通い先になっていることも関係している。

「集う」こと、「つながる」ことは、最近ではオンラインツールを使えばできないわけではない。
ただ、そこに生身の人間がいること、場所を共有していることにはそれだけで意味があるのではないかということを、ここ最近改めて感じている。

朝起きて、朝ごはんを食べ(食べなかったり)、身支度をして(身支度もそこそこに)、事業所に来る。
料理を作って、みんなで食べて、畑に行ったり、何かものを作ったりして、家に帰る。

人にもよるが、ものすごく”ケア”らしいことをしているわけではない。
でも、日中通う場所があることで、朝はとりあえず起きるし、身体も少しは動かす。他者と会話もするし、他の人たちが会話している声も聞こえる。少し心配なことがあればなんとなく相談もできるし、他の人も同じような心配事があれば、どんな風に乗り切っているのか聞いたり考えたりできる。

この感覚は、おそらく電話などでの1対1の対応ではなかなか得ることが難しくて、ある程度の時間を他者と同じ空間で過ごすことで生まれる感覚なのだと思う。
とりあえず生活のリズムもできるし、昼もそこそこ栄養バランスのある食事がとれる。
人と会ったり、動いたりすれば多少は疲れるので、夜も眠れる(かもしれない)。

また、そもそも一日中家にいることで、コロナのことについて過剰に不安になったり、幻聴さんなどに完全に支配されて精神的に不安定になることもある(テレビの報道や防災無線なども大いに影響している)。
不安で夜眠れない、昼夜逆転になってしまう、(実際に熱などはないのだが)コロナにかかったと思ってしまう、「お前はコロナウイルスにかかっている」と幻聴さんに言われている、などのことはよく聞くことでもある。

一般には安全だといわれる家が、精神衛生上は非常に不潔な場所になってしまっている現況があるように思う。
これは、”心の病い”を持つ人だけでなく、「健常者」と呼ばれている人たちにも今後大きな問題になってくる(今も問題になりつつある)ことだと思う。

だからこそ、「集団的なケア」(専門用語でいうグループワーク)の有効性、有用性について、再度考え直す必要がある時期に来ていると思う。対面的なセラピーももちろん必要なのだが、セラピー+「集団的なケア」をどのように行い続けることができるのか。
再び、「場と時間を共有した形でのケア」の必要性を訴えるうえで、考えていきたいテーマである。

 

その際に頭に置いておく必要があるのが、「リスクと管理」をめぐる問題なのだが、長くなったので、次のブログで。

ブログはじめました

千葉の田舎にある小さなNPOで働き始め5年目になった。
普段は精神障害のある人を対象とした障害福祉サービス事業を行なっている事業所で働き、勤務時間外や休日などを利用して、法人が独自に行なっている制度外のあれこれに細々と参加し、様々な立場の人たちと“まちづくり”なんてことも考えている。

どうでもいいような、けれどもどうにも文字にしておきたいあれこれが日々たくさん身に降りかかる中で(時には自ら浴びにいっているけれども)、少なくとも文字として残しておくことは必要だと思い、なんとなくブログを始めることにする。

「障害」に関係する分野では、一般的に2003年の支援費制度や2005年の障害者自立支援法の施行により、福祉サービスを受ける人が増え、障害があっても地域で暮らしていけるための基盤が作られたとされる。
2000年には特定非営利活動促進法も制定され、それ以前から任意団体として活動していた団体が、NPO法人格を持って活動を始め(私の働いているNPOもそれにあたる)、法律に沿った福祉サービスの提供も始めた。

ただ、現状はどうだろう。かつては何かしらの社会問題を解決したり、解消に向けた取り組みなどを行う組織として活躍が(勝手に/安上がりだからと)期待されていたNPOも、法人格の取りやすさから、大した理念もない(ように思える)NPOがほとんどになってしまったのではないかと感じてる。
少なくとも、障害者福祉に関係するNPOの多くでも、上記のような状況は見られ、確かに障害のある人に対するサービスは提供するものの、その見据える先には事業所の運営や拡大、利用者の取り込みetc があり、例えば制度上の課題、問題を訴えたり、目の前に見える/関係する人たちを通じて見える「社会」というところにまで、目が向かない(目を向けようとも思わない)団体もとても多くなっているのが現状だと感じている。
結果として生じるのは、制度の貧困化や囲い込み、生活の制度による分化、地域からの「隔離」、過剰なボランタリーなものの称賛など、目の前にいる人や関わる人、ひいては自分自身をも蔑ろにしてしまう未来なのではないかと思うのだが。

「社会」をどう見るのか。
今目の前にいる人に何を見るのか。
暮らしている“まち”に何を見るのか。

多くの人たちは見なくてもいい/見たくない現実がそこにはあるのだと思う。
ジョック・ヤング『後期近代の眩暈 ―排除から過剰包摂へ― 新装版』でいう「過剰包摂」の社会。
社会的には包摂しているといいながら、現実的には生活上排除している現状。
そんな“いま”を少しでも溶きほぐしたいと感じながら、小さな石を投げ続ける。
小さな石を投げる自分にもまた、様々な違和感を感じながら。
そしてその違和感を離さないように。