コロナを巡って①

コロナウイルスが流行している今、世間一般で言われていることに加えて、精神障害があること(”心の病い”があること)からくる難しさがうまく汲み取られていないように思う。
その現況に結構イラついていたりするのだが、いくつか書き残しておければと思っている。

■「集う」ということ、「つながる」ということをめぐって
緊急事態宣言が出され、3密を避け、なるべく家にいることが勧められてしばらくになる。
ただ、僕の働いている障害福祉サービス事業所は、様々な対策は行いながら、通常通りの運営を続けている。
正直、様々な対策を行ったり、もしも自分の事業所でコロナウイルス感染者が出たら…という不安、また職員の中にも基礎疾患があったり、学校に通っている子どもさんがいらっしゃったりで、かなり精神的に疲弊している。

それでも事業所を開け続けるのには、日中通う場所があることの必要性(自分の家でない外の場所)を感じているし、その中で他者とかかわることの重要性も感じているからであり、これは現在電話での対応を勧める国の方針とはやや違う位置にあると思う。
また、精神科デイケアが活動を縮小しており、地域柄そうした場所が日中の主な通い先になっていることも関係している。

「集う」こと、「つながる」ことは、最近ではオンラインツールを使えばできないわけではない。
ただ、そこに生身の人間がいること、場所を共有していることにはそれだけで意味があるのではないかということを、ここ最近改めて感じている。

朝起きて、朝ごはんを食べ(食べなかったり)、身支度をして(身支度もそこそこに)、事業所に来る。
料理を作って、みんなで食べて、畑に行ったり、何かものを作ったりして、家に帰る。

人にもよるが、ものすごく”ケア”らしいことをしているわけではない。
でも、日中通う場所があることで、朝はとりあえず起きるし、身体も少しは動かす。他者と会話もするし、他の人たちが会話している声も聞こえる。少し心配なことがあればなんとなく相談もできるし、他の人も同じような心配事があれば、どんな風に乗り切っているのか聞いたり考えたりできる。

この感覚は、おそらく電話などでの1対1の対応ではなかなか得ることが難しくて、ある程度の時間を他者と同じ空間で過ごすことで生まれる感覚なのだと思う。
とりあえず生活のリズムもできるし、昼もそこそこ栄養バランスのある食事がとれる。
人と会ったり、動いたりすれば多少は疲れるので、夜も眠れる(かもしれない)。

また、そもそも一日中家にいることで、コロナのことについて過剰に不安になったり、幻聴さんなどに完全に支配されて精神的に不安定になることもある(テレビの報道や防災無線なども大いに影響している)。
不安で夜眠れない、昼夜逆転になってしまう、(実際に熱などはないのだが)コロナにかかったと思ってしまう、「お前はコロナウイルスにかかっている」と幻聴さんに言われている、などのことはよく聞くことでもある。

一般には安全だといわれる家が、精神衛生上は非常に不潔な場所になってしまっている現況があるように思う。
これは、”心の病い”を持つ人だけでなく、「健常者」と呼ばれている人たちにも今後大きな問題になってくる(今も問題になりつつある)ことだと思う。

だからこそ、「集団的なケア」(専門用語でいうグループワーク)の有効性、有用性について、再度考え直す必要がある時期に来ていると思う。対面的なセラピーももちろん必要なのだが、セラピー+「集団的なケア」をどのように行い続けることができるのか。
再び、「場と時間を共有した形でのケア」の必要性を訴えるうえで、考えていきたいテーマである。

 

その際に頭に置いておく必要があるのが、「リスクと管理」をめぐる問題なのだが、長くなったので、次のブログで。